高貞碑
高貞碑

書 の 歴 史 中国編 〈11〉老本 静香


30、高貞碑

 高頁防は28,29で紹介しました鄭文公碑、張猛龍碑とならんで六朝時代の代表的な作です。

 この碑は北魏正光四年(523)に建てられたもので清時代の嘉慶11年(1806)に山東省徳県(今の徳州市)から出土しました。

 前項の張猛龍碑と一年しかちがわないのに、形がよく整ってややおだやかな感じがします。字形の組み立ては、引き締まった点画を合理的に組み合わせて、完成された文字の形が出来上がっています。

 この碑の優れたところは、北魏の書の豪快さと力強さを持ちながら、線がすっきりして字形がよく整い、完成された美しさを持っていることです。そのため書の専門家の間では、完成されすぎてかえって面白くないとさえいわれたりしています。

 今から約1500年も昔ににすでにこのような立派な書があった中国文化の歴史を考えるとき、底知れない深さを感じるではありませんか。日本ではその頃はまだ古代といわれている時代で、正確な歴史も明らかになっていません。

 高貞碑は北魏の孝明帝正光四年(523)に建てられた高貞という人の頌徳碑です。高貞は孝明帝の前の宣武帝の皇后の弟で、26歳で亡くなりました。26歳の若さですから、官位も太子洗馬という下役で、碑に記すほどの功績もない人ですが、家柄が名門であり皇后の弟ですから、高い官位が贈られ、この碑が建てられました。

 この碑の書者は不明ですが、これらのことから考えても、おそらく当時の一流の人が書いたものであろうといわれています。

 またこれと同じ頃に同じ地に建てられた高慶碑というのがあります。これは高慶という人の碑ですが、高慶は高貞と兄弟で18歳で亡くなっています。碑の文字も高貞碑と同じと思われ、碑の形式、建てられた場所、時期など共通点の多いものです。

 高貞碑、高慶碑、そして高湛墓誌の三つを[徳州三高碑]と呼んでいます。


 



張玄墓誌銘
張玄墓誌銘

31、張玄墓誌

 墓誌というのは、死者の姓名官名や生い立ちなど伝記のようなものを記して、葬るとき棺を納める穴の中へ入れたものです。形式は正方形の石板を二枚あわせて、その一つには銘を刻し、他の一つには伝記が刻されています。銘というのは詩のようなものです。

 張玄墓誌は張玄という人の墓誌ですが「張黒女墓誌」とも呼んでいます。なぜそういう呼び方をするかといいますと、古来中国ではその時代の皇帝の本名の文字を避けて使わない習慣がありました。清朝の康熈帝の本名が「玄燁」であったので、玄の字を避けて張玄の字(あざな)が黒女であったところから清朝以米張黒女墓誌と呼ばれてきました。

 この張玄墓誌の文字は非常に味わいのある古気豊かな書として珍重されていますが、原石はなくなっており、拓本もただ一つしかこの世に存在しないといわれているものです。

 この唯一の拓本は清時代の有名な書家何紹基(かしょうき)という人が秘蔵していて有名になりました。いま私達が目にするのはすべてこれの複製です。

 北魏の普秦元年(531)の刻ですから、ここしばらく紹介してきた北魏の書、鄭文公下碑・張猛龍碑・高貞碑などと年代的にはいくらも経ていません、それなのに見た感じがずいぶんちがうのが面白いと思います。

 北魏の書は非常に強くきびしい筆画が特徴ですが、張玄墓誌にはそうした険しさがほとんど見られず、文字の形も美しく整い、雅致があって和やかな感じさえ与えます。


真草千字文
真草千字文

32、智永・真草千字文

 今回は、智永の真草千字文です。

 これを書いた智永という人は、生まれた年や亡くなった年がはっきりしないのですが、中国の陳(557589)から隋(581618)へかけての人です。

智永は王羲之の子、王徽之の子孫で、王羲之から数えて七世の孫にあたり、祖の王羲之の書法を受けついだ書の名人です。

 若い頃、兄の孝賓とともに家を出て坊さんになり、呉興(現在の浙江省呉興県)の永欣寺に住んでいましたが、隋時代に長安(現在の西安)の西明寺に移りました。

 智永は寺の一室に三十年の間閉じこもって書の研究をしました。そこで真草千字文を八百本も書いて、これを自分の住んでいた浙江東部の諸寺に納めたということです。

 智永が書の勉強に熱心であり、また書の名人であったことについて「鉄門限」とか「筆塚」などの逸話が伝えられています。

 「鉄門限」というのは、智永の書を求める人が次々に押し寄せ、盛んに門をたたくので扉が壊れてしまいました。仕方がないので鉄板でこれを修理しましたが、人々はこれを「鉄門限」と呼んだということです。また使い古した筆が沢山たまり、それが竹で編んだ大きなかごに五杯も出来てしまいましたので、それを地中に埋め、塚を作って「退筆塚」と名づけました。日本でも「筆塚」があり「筆供養」の行事が各地で行われていますが、この智永の故事から来ているわけです。

 千字文はよく知られていますが、梁の武帝(502550)が周興嗣に命じて作らせたもので、一句が四字、即ち、「天地玄黄宇宙洪荒」から始まる250句、計一千字の韻文です。この一千字は全部ちがった字で、重複する字は一字もありません。日本の「いろは歌」みたいなもので、同じ字がありませんから書の手本にちようどいいわけです。


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