三室小石先生年譜

年      (歳)

 

1903(明治36

47日。静岡県天竜市に材木商の5男として生まれる。本名英一。

1917(大正614

このころ鵞堂流を学ぶ。

1921(大正1018

神奈川県逗子市に転居。墨華会を創立。『書道角力』を創刊。台湾を含む日本全国を東西に分け、取組相手をきめ。半年一場所として番付を作るというもの。のち『書道趣味』と改題。

1926(大正1523

9月。健康上の理由により墨華会解散。

1927(昭和224

東京都豊島区千川町に転居。講談社に入社。以後12年にわたり創始者野間清治社長の右筆として勤務。また、講談社で出版する婦人雑誌に、婦人向け手本を執筆。

1936(昭和1436

講談社を退社。自宅に書道教室を開業。

1940(昭和1537

4月、婦人専門の書道雑誌として『婦人みづぐき』を創刊。創刊部数は千部であった。書道に関する記事のほか、短歌、俳句、女性のための読み物などを掲載。ペン字(万年筆)による手紙の手本も見える。

1941(昭和1638

12月、太平洋戦争勃発。『婦人みづぐき』の内容も戦時色が濃くなる。以後の雑誌発行、物資不足で徐々に困難になる。

1943(昭和1840

利根川流域、群馬県玉村町の矢川開田耕地竣工碑(中村孝也東京帝大文学部教授撰文)を書丹。

1944(昭和1941

時局の緊迫、物資の欠乏により、昭和1912月、201月合併号をもって『婦人みづぐき』休刊。

1945(昭和2042

7月、山梨県身延町近くの一寒村に疎開。兄直哉(金羊)とともに木炭生産に従事した。

1946(昭和2143

7月、疎開先をようやく離れ帰京。東京都豊島区高松町に間借す。しかし、荒廃した東京では、雑誌の復活どころではなかった。

1947(昭和2244

8月、講談社時代からの友人で、初めての門人であった有馬金三郎氏の肝いりにより、群馬県中之条町の山口印刷所で『婦人みづぐき』を復刊。「婦人みづぐき文庫」第一集として『当用漢字毛筆・ペン三体字典』を発行。中之条町に一泊して校正し、できあがった雑誌をリュックサックに詰めて帰るといった生活を繰り返す。

1948(昭和2345

4月、『婦人みづぐき』を『みづぐき』と改名。この頃月刊ペン習字誌『ペン世界』発行を試みる。なお『みづぐき』には寄稿者として文字学者藤原楚水、歌人土屋文明、書家比田井南谷、大沢雅休などの名が見え、交友関係の広さがうかがえる。この年より日展に五科として書が加わる。

1949(昭和2446

印刷所を東京に移す。この頃まで、物資的窮乏のためたびたび休刊する。 1950(昭和2547歳 『みづぐき』をA5版からB5版に拡大。しかし、会員が増えず、発行は著しく困難であった。

1951(昭和2648

4月、『みづぐき』を『水茎』に改名。発行元も『婦人みづぐき会』から『水茎会』に改め、男性の購読をはかる。4月、月刊誌『近代ペン習字』を近代ペン習字会より創刊。のちの『近代ペン』の前身である。5月、関西、九州に講演旅行。

1952(昭和2749

1月、上野・「韻松亭」にて『水茎』『近代ペン習字』合同の新年会。(以後昭和32年まで)日本書道院創立。理事・審査員として参加。7月に第一回展を開催。第三部にペン字部門がある。この部門の中心的存在になったと思われる。この年日展に入選。(以後通算11回)。『ペン字上達の手引』を刊行。5ヵ月単位の通信講座を開設し、テキスト『みづぐきペン習字講座』全5巻を刊行。

1953(昭和2850

豊島区千川に住居を新築する。

1955(昭和3052

10月、日本書道院を脱退。10月、『近代ペン習字』を廃刊とし、新たに水茎会より『近代ペン』を創刊。この頃より関東、東海、関西、北九州圏の企業や官庁を中心に、ペン字サークルが増え始めた。創造社より『ペン習字基本書法』『ペン実用文字の書き方』出版。

1956(昭和3153

創造社より『ペン習字書道宝鑑』を出版。河野書店版『新式辞典』(中山久四郎編)にペン字手本を執筆。金曜社より『婦人ペン字手紙寶典』を、博文社より『手紙用語新式ペン字宝典』を出版。

1957(昭和3254

6月、岐阜県多治見市に講習に赴く。9月より水茎会のペン字部門を独立させ、日本ペン字書道協会を創立。『近代ペン』を日本ペン字書道協会発行とする。9月、創造社より『ペン書道宝鑑』を出版。

1958(昭和3355

1月、東京・中野「日本閣」にて新年会(昭和37年まで)、この頃、会は発展を続け、支部数100を越える。

1959(昭和3456

東京都美術館の借款権を得て、6月、水茎会、日本ペン字書道協会合同主催による「日本総合書芸展」を開催。

1960(昭和3557

6月、第2回日本総合書芸展。9月、『水茎』『近代ペン』の会員、日本総合書芸展を母体として、「日本総合書芸院」を創立。25日、創立大会を上野「韻松亭」で開催。

1961(昭和3658

5月、仙台市、山形県新庄市に講演旅行。6月、第3回日本総合書芸展。

1962(昭和3759

2月、『水茎』200号を迎える。6月、第4回日本総合書芸展。8月、鎌倉にて園遊会。

1963(昭和3860

1月、東京・芝「八芳園」にて新年会。6月、第5回日本総合書芸展。10月より『水茎』の学生部を分割し、『水茎学生版』(のち『学生水茎』と改名)を創刊。

1964(昭和3961

1月、神奈川県逗子市「国鉄海の家」で新年会。5月、光文書院より『現代ペン習字』を出版。6月、第6回日本総合書芸展。11月、広島、九州に講演旅行。12月、日本ペン字書道協会版『当用漢字四体字典』を出版。

1965(昭和4062

1月、東京・目黒「雅叙園」にて新年会。6月、第7回日本総合書芸展。9月、日本総合書芸院が社団法人の認可を受け、副理事長に就任。

1966(昭和4163

1月、鎌倉市由比ヶ浜「ホテル学生会館」にて新年会。1月より『水茎』を『総合書芸』と改名。7月、第8回日本総合書芸展。東都書房版『現代ペン習字字典』出版。8月より『近代ペン』の学生版『学生近代ペン』を創刊。

1967(昭和4264

1月、「帝国ホテル」にて新年会。7月、第9回日本総合書芸展。9月、講談社版『現代書道全集』を企画、編集し出版。9月、静岡県富士市にて講習会。11月、岡山県玉野市、北九州市、愛媛県御荘町を巡り、一週間に及ぶ講演旅行を行う。

1968(昭和4365

1月、「迎賓館」にて新年会。5月、神奈川県熱海伊豆山にて、日本ペン字書道協会師範練成会(師範会の前身)。5月、横浜高島屋にて兄、金羊と兄弟展。三笠宮妃殿下のご観覧を賜る。7月、第10回日本総合書芸展。11月、『近代ペン』200号を迎え、これを記念して、熱海「西熱海ホテル」にて園遊会。

1969(昭和4466

1月、神奈川県曹洞宗大雄山「最上寺」にて新年会。4月、愛知県犬山市にて第2回近代ペン全国師範会。6月、ペン友支局懇親会出席のため静岡県富士市に赴く。7月、第11回日本総合書芸展。11月、9日島田市で講演会。19日結婚式出席のため名古屋に赴き、中京地区師範と懇親会。

1970(昭和4567

1月、新年会を兼ね、兄、金羊叙勲祝賀会を「赤坂プリンスホテル」にて開く。4月、「鬼怒川温泉ホテル」にて第3回近代ペン全国師範会。6月、経営上の理由から兄と袂を分かち、9月より『総合書芸』を『水茎』に戻す。10月、『水茎』通巻300号を迎える。11月、東大教授中村孝也博士の歌碑由来(多磨霊園に建立)を揮毫。

1971(昭和4668

1月、「赤坂プリンスホテル」にて、水茎会、日本ペン字書道協会合同で新年会。2月、自宅近くで輪禍に遭う。頭と右腕は無事であったが、左腕、肋骨などの骨折により、全治3ヵ月と診断された。4ヵ月の入院の後、6月、退院。7月は箱根芦之湯、8月は水上温泉にて湯治。この年、学生部、漢字、かな、ペン字の書道展を分割してそれぞれ開催。9月、鹿教湯温泉にて湯治。

1972(昭和4769

1月、「京王プラザホテル」にて新年会。この頃、体調の小康を得る。5月、豊島区民センターにて「小石一門展」を開催。6月、富士市書道展の審査員として静岡に赴く。8月、上野の森美術館にて「水茎近代書道院展」開催。102日湯治先の鹿教湯温泉にて狭心症のため急逝。同日付で、長年の功績に対し勲五等雙光旭日章を受く。912日に揮毫された「愛」(90cm×120cm)が作品としての絶筆となった。1014日、青山葬儀所にて、水茎近代書道院、日本ペン字書道協会により葬儀。法名、三光院寿山小石居士。鎌倉・円覚寺に埋葬される。                                    (年譜提供 日東看流氏)

 
 
 

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