書 の 歴 史(中国編)<12> 老本 静香
33、龍蔵寺碑
北京から南へ250キロ、河北省正定県の県都である正定の町に、龍興寺又は隆興寺、俗に大仏寺と呼ばれる寺があります。この寺はもと龍蔵寺と呼ばれていたのですが、唐の昨代に龍興寺と改められたということです。
ここに能蔵寺碑があります。この碑は大勢の募金によって龍蔵寺を建立したことなど、寺の由来を書いた記念碑です。
碑が建てられたのは、隋の開皇6年(586)で、隋代の書として有名なものですが、書者の名前は専門家の間でも諸説あってはっきりしません。ただ碑の末尾に張公礼という名前があるので、一応この人が撰文し、かつ書いたのではないかといわれているところです。しかし張公礼という人の伝記は明らかでありません。
この書は一見すると唐の褚遂良のような感じを受けますが、よく見ると北魏時代の書のいかつさや、王羲之や鍾繇の楷書のような素朴さもあります。
中国の書の歴史では、唐の時代が花開く全盛期といわれますが、この碑の書はそのすこし前の完成されていない時代のもので、中国南北の書を集めてやや整理されていない段階として見ると、時代的特徴がわかって面白いと思います。
34、美人董氏墓誌銘
美人というと美しい女性というふうに思われますが、ここでの美人というのは古い中国の宮延内の侍女の階級をいいあらわす官名です。
美人董氏墓誌銘は、隋文帝の四男にたる蜀王秀が、美人董氏の死を悼み、董氏のために自ら哀悼の文を作って葬ったものです。
この墓誌銘は来月掲峨予定の蘇孝慈墓誌銘とともに、その文字の美しさと刻の鮮明さで、この時代を代表するものとして有名なものです。
墓誌銘というのは、故人の姓名、爵位、死亡年月日、功績などを石に刻して、棺といっしょに地中に埋めたものをいいますが、この形式は三国時代の魏の曹操が碑を立てることを禁止してから、長い間墓碑を立てることが出来なかったため、その代わりに考え出されたものです。
隋の時代には墓誌銘を造ることが大流行したようで、近年おびただしい数の墓誌が出土しています。
ところでこの墓誌銘の主人公である董氏は、実際にもすぐれた美人であったようで墓誌に次のように記されています。
「美人は体つきが華奢で、気持はすなおであった。華を含み、艶を吐き、龍のあや、鳳のいろどりのようであった。妖しい姿は国を傾け、なまめかしい笑は千金に値した。装いは池の蓮に映え、鏡は窓辺にかかる月のように澄んでいた。態(しな)は人の瞳を引きつけるあでやかさを振りまき、良き香りは裳裾をひきずる風に漂った。」
35、蘇孝慈墓誌銘
蘇孝慈墓誌銘は、先月の美人董氏慕誌銘とともに、隋代の数多くある石刻文の中で、もっとも優れたものとされ、隋代の名品といわれているものです。
清の光緒14年(匸(1886)に出上したと伝えられていますが、石材が良質でしかも永く土の中にあったため、文字にも全く損傷がなく、非常に鮮明です。
これが出土すると同時にたいへんな評判になり、役所の文官や科挙の受験生たちは、その端整で美しい文字の姿にひかれて、手本として拓本を皆一本ずつ買い求めたため、一年足らずで洛陽の紙の値段がつりあがったほどだと伝えられています。
美人董氏墓誌と蘇孝慈墓誌はほとんど同じ頃のものですが、よく似ている共通する面と、相反する面を併せ持っているのが面白いと思います。
共通するところは、同代の書の特徴である端正な字形と整然とした筆法のたしかさです。
相反する点は書風です。美人董氏の方は非常に繊細巧緻な書き方ですが、蘇孝慈の方は明るく爽やかで、構成が平易でゆったりしたところが感じられることです。
蘇孝慈墓誌銘の主人公である蘇孝慈は初め西魏に仕え、後、北周・隋の両朝に仕えた人です。隋文帝の皇太子、勇のもとに配属され、信任を得ましたが、勇の弟で、当時晋広王であった後の煬帝の策謀により、勇が廃嫡になってからは不運であり、晩年、交州道行軍総管として叛乱軍の平定に赴く途中、仁寿元年(601)病没しました。
目次へ