石鼓文
石鼓文

書 の 歴 史(中国編)<2>  老本 静香

 

4、石鼓文 (せっこぶん)

文字の歴史をたどりながら、甲骨文・金文と勉強してきました。そのほか、これらと同じころのものに「古印」つまり「はんこ」に刻った文字があります。古印は多くは青銅に刻ったものですが、玉印・骨印・陶印・ガラス印などもあります。

 さてその次に古いものは石に刻った文字です。中国にはいたるところに古い石碑があります。ほんとうに石碑の国といってもよいほどで、これらは長い中国の歴史の中で造られてきたものです。石碑の文字は、拓本(石碑の文字を紙に写しとったもの)として書の手本にされていますが、書を学ぷ者にとってはたいへんありがたいものです。

 書道史の上で、石に刻った文字でもっとも古いものとされているのは「石鼓 文」です。石鼓文は高き50センチぐらいの太鼓のような形をした円い石に、文字が刻まれているもので、全部で10個あります。 文字の書体は大篆(だいてん)とか文(ちゅうぶん)とよばれている古いもので、専門家でないと読めませんが、それでも一つや二つ何とか読める字があるのが面白いと思います。

 文字は全部で700字ほどあったものですが、はげ落ちたところが多く、いま読めるのはその半分くらいです。文の内容は狩猟のことが多く書いてありますが、この石が何のために刻されたものかわかっていません。

 また石鼓文がつくられた年代についても学者の研究にいろいろな説があってはっきりしないのですが、大体のところ春秋時代、つまり東周のころというのが定説になっているようです。

 石鼓文は、いまは北京の故宮博物院にありますが、長い歴史の間にあちらこちらと数奇な流転の運命をたどっています。唐の初めに発見されるまでは、陝西省陳倉の田んぼの中にころがされていたということです。その一つなどは頭を切って臼に使われていたくらいで、全く誰もかえりみることなく長い歳月を経てきました。その後あちこちへ移されて、宋の時代には都の大学に置かれていました。それから元の時代に北京の孔子廟に移されて、ずっとそこにあったのですが、日中戦争中に一時どこかへいってわからなかったこともあります。

石鼓文は、石に刻ったものではもっとも古いものですが、いつの時代に刻されたものかは、いろいろな説があってはっきりしていません。しかし大体のところ東周時代後半のものにまちがいないというのが定説です。

泰山刻石
泰山刻石

5、泰山刻石

 東周は春秋・戦国時代ですが、各地に大小の国がおこり、周王朝の威信が衰えて、遂には秦大帝国の中国統一によって約850年続いた周王朝は滅亡します。

 秦の始皇帝は偉大な皇帝で、万里の長城を築いたのはよく知られていますが、文化的にも大きな事績を残しています。いまでいうなら文化革命をやったわけで、法律・文字・貨幣・度量衡などを画一しました。やり過ぎたところもあって、焚書坑儒政策(儒者を生き埋めにして殺したり、思想書を焼き捨てたりした)など、後世暴君といわれたりするところがありますが、始阜帝の事績の中でも文字の改革統一はすばらしいことです。

 その頃旧六力国はそれぞれの文字をもっていましたが、それを捨てさせて、李斯・趙高などの学者に命じて、いままで便っていた秦の文字を整理して、新しく小篆と秦篆を世に示しました。それかいまに伝えられている篆書の基であるわけです。

 秦の始皇帝は天下を統一した後、晩年には各地を巡幸して、自らの功績を民衆に宣伝し、また後の世に残すため、各地に自分の頌徳碑を建てました。それが秦の刻石といわれるもので、全部で七つあります、(注・六つという説もあります)それらのうち原石が残っているのは、泰山の刻石と瑯邪台(ろうやだい)の刻石の二つだけです。泰山刻石は秦の始皇帝28年(前219年)の刻で、李斯が書いたものと伝えられています。

 書体は整然としています。字体は細長く、左右がよくそろっています。当時は毛筆がまだ発達していなかったので、太筆がなく、何回もなぞって太さを出したものらしく、実に丹念に書かれています。

瑯邪台刻石
瑯邪台刻石

6、瑯邪台(ろうやだい)刻石

 始皇帝は天下統一後、東方の郡県を巡幸して、各地で自分の頌徳碑を建てました。一番目は山の刻石、二番目は前節の泰山の刻石で、瑯邪台刻石は三番目のものです。

 始皇帝は泰山から渤海に沿うて東に向い、芝罘(ちいふ)に上り、さらに南の方へ、そしていまの山東省諸城にある瑯邪山に上りました。その山頂に台(うてな)を造り、石を立てて秦の功績を刻しました。それが瑯邪台の刻石です。

 秦の刻石は七つあったといわれていますが、原石は残っていず、わずかに泰山の刻石とこの瑯邪台の刻石だけ断石が残っていて、いまは山東省博物館に保存されているということです。

 秦の時代というのは歴史的には特筆される時代ですが、ごく短いもので、秦が天下を統一した始皇帝26年(前221年)から二世皇帝3年(前107年)までのわずか足かけ十五年です。ところがそのわずかな期間に、偉大な始皇帝は絶対権力をもった独裁によって、数々の大きな改革を急速になしとげました。

 その二、三をあげてみます。

文字の統一  各地によって書体が少しずつ異なっていたのを、秦の小篆の書体に統一することを強制した。

度量衡の統一  標準の量器がつくられ、それに合わせることが強制され た。

車輪の幅を統一  そのころの道路は整備されていなかったから、轍が道に深くくいこんで、レールのようにくぼんだ線が走っていました。車輪をその中にいれて、車を走らせるのですが、他国の車が入れないように、意識的に車輪の幅を違わせていました。それが他国の侵攻を防ぐ一つの手段でもあったのです。車輪の幅を統一したことを「同軌」といいますが、これは道路の統一で、同じ車で、全国のどこへでも行けるのですから、その果した役割は非常に大きかったと思われます。

万里の長城  始皇帝というと万里の長城を連想されますが、万里の長城は始皇帝が造りあげたものではありません。戦国諸国がそれぞれ築いていた城を、始皇帝がつなぎ合わせて補強したものです。  (続く)

    

 

                                         

筆者   老本静香(おいもと・せいこう) 当会副理事長

※「書の歴史」は「小石の友」誌に昭和61年から連載されています。(この記事はWeb用に一部加筆しました)

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