書 の 歴 史(中国編)<4> 老本 静香
10、石門頌
漢宇の書体にはいろいろありますが、ふつうには、篆書・隷書・楷書・行書・ 草書の五つをいいます。 このほかに古文といわれる古い書体や、篆書にも大篆、小篆という区分があり、隷書にも古隷とか、八分、分隷といった呼び方もあり複雑です。また楷書にも真書、正書という呼び方があります。行書、草書はくずした書き方をしますが、楷書に近い行書もあり、行書か草書かはっきりしないものもあります。この「書の歴史」の中で、これまでとりあげた書体はほとんど篆書でした。文字の歴史は物を図形にし、記号化することにはじまって、篆書という文字に進歩してきましたか、なんといっても篆書は複雑で書くのに手間がかかり能率があがりません。そこで実用に使う必要からもうすこし簡略にした「隷書」が考え出されました。
なぜ隷書という変った呼び方をするのかといいますと、いろいろ説がありますが一般には次のように伝えられています。
「従僕の程邈(ていばく)という人が罪を犯して、雲陽というところの牢獄につながれていた時に、一所懸命に工夫して篆書を簡略にした新しい書体3000字をつくり山しました。それを始皇帝に献上したところ、始皇帝はたいへん喜んで、程邈を釈放して書記官に任命したということです。そのときの新しい書体が隷書だったわけですが、身分の卑しい従僕が作ったということから隷書と呼ぶようになった」ということです。
さて写真は後漢時代のもので代表的に有名な「石門頌」です。これは漢中(陝西省褒城県)の褒斜谷にある、石門道の自然の岩壁に刻された摩崖書です。その内容は漢中の褒から斜へ通じる非常に険しい道路が遮断されていたのを、再び開通させた楊孟文という人の功績をたたえたものです。 書は八分体で非常にすぐれたものとして昔からよく習われています。
11、礼器碑
中国の歴史は、殷・周・秦・漢の時代へと続きますが、書の歴史も殷の甲骨文・周の金文・秦の篆書と移り、漢代は隷書が開花し全盛となります。隷書が字体として、また芸術的にも完成するまでには、かなり長い期間を経過しております。その発達過程では字体にいろいろなものがみられますが、およそ三百年の期間を経て、後漢時代にほぼ完成しました。
後漢時代(25~220)は石碑を建てるのが大流行したようで、一説には500以上建てられたということです。今日原石が残っているものだけでも100種以上あるといわれ、拓本で伝えられているものもありますので、その文字を見ることが出来ます。書として非常にすぐれたもので、隷書が後漢代に完成し、篆書に代わる公用文字として使われ、その全盛期を迎えたことがうかがえます。また初期のものを古隷、後漢代のものを漢隷と呼んでいますが、書を学ぶ者には貴重な手本です。
後漢時代に石碑を建てるのが大流行したのは当時の政治、文化、宗教といったようなものの事情が背景にあったのでしょう。なんでも前漢時代は碑を建てることが許可されなかったということです。また後漢時代には石碑の形式なども一定のものに整理され、ほぼ完成された形式のものになりました。
石碑の起源について面白い説があります。一つは宮殿や宗廟内に建てて、生贄をつなぐ柱の役目をするものだった。もう一つは、墓に建てて滑車をつけ、棺を墓穴におろすのに使ったという説です。どちらも昔は石か木で柱のように建てたのでしょうが、それが石になり、文章が刻まれて石碑となったということでしょう
写真は後漢の碑の中でも有名な礼器碑です。原石は曲阜の孔子廟内の碑林に保存されています。この碑の名称は昔から一定していませんが、一般に『魯相韓勅造孔廟礼器碑』といい、略して『礼器碑(らいきのひ)』といわれています。(近頃の出版物には「れいきのひ」としているのもあります。
12、曹全碑
後漢時代は隷書が完成し、隷書による碑、碣(けつ)がたくさん造られました。碣というのは天然の石にそのまま刻したものや円形の石をいい、形を整えた方形のものを碑といいます。これらの石に文字が刻されたものを総称して碑碣と呼んでいます。
曹全碑は先月号の礼器碑より30年ほど後に建てられたもので、数ある後漢時代の碑の中でももっとも末期のもので、それだけに隷書の完成度が高く、字形がよく整い、非常に洗練された美しさをもっています。
書体は八分(はっふん)といわれるもので、「八宇分散」すなわち八の字のように左右に分散した姿態のある隷書のことをいい、左右に大きく開いて波傑(はたく)という大きなハネ上げをしています。
碑石は明の万暦乍間に今の陝西省合陽県から出土したといわれ、今は西安の碑林に置かれています。以前、小石會第二次訪中の際この碑を見てきましたが、黒々とした堅そうな石にはっきりした文字が刻されており、とても1800年も前のものとは思えないほどでした。 碑文は、曹全が黄巾賊の動乱を鎮めた功績を記した頌徳碑で、20行、一行45字で、本文849字もある大きなものです。
この時代にはまだ楷・行書は出来ていませんでした。あるのは篆書と隷書、そして草書の原型である「章草」でしたが、中国では漢代になった頃からすでに学書ということが重要なことになりつつあったようで、そのため八分書を考え出したり、立派な書の碑が作られたりして、すばらしい文化を持っていたわけで、その歴史の深さに驚かされます.日本の歴史はその頃は弥生時代にあたります。 (続く)
筆者 老本静香(おいもと・せいこう) 当会副理事長
※「書の歴史」は「小石の友」誌に昭和61年から連載されています。(この記事はWeb用に一部加筆しました)
目次へ