書 の 歴 史(中国編)<5> 老本 静香
13、 宣示表
漢王朝は紀元前206年から紀元220年まで、400年余続いた中国で最長の王室ですが、末期には人災と飢饉に襲われ、さらに黄巾賊という黄色い布を身にまとった群賊が、各地で役所や金持ちを襲撃して暴れまわり、世の中が乱れに乱れました。
おなじみの『三国志』は、この黄巾賊のことから物語が始まるのですが、この黄巾賊を征伐した丞相の曹操は次第に勢力を増し、漢王朝の献帝を擁立して華北一帯を支配しました。そしてその子曹否はさらに勢力を持ち、ついには帝位を禅譲という形で譲り受けて魏の文帝となりました。
一方群雄の一人劉備は成都(四川省)で位につき蜀の国を建て、同じく群雄の一人孫権も建業(南京)に都をおいて呉としました。この魏・蜀・呉の三国が同一」して争い合っていたのが三国時代です。
さて、宣示表はこの時代に鐘繇という人が書いたと伝えられるものです。鐘繇(151~230)は漢に仕え、のちに魏に仕えた役人で、魏の宰相にまでなった人ですか、書の名人で、書法の祖と仰がれています。その書法は王羲之・工献之をはじめ、唐の諸大家もすべて学んだということです。
楷書は隷書から変化発達したもので、漢の終わり頃に芽ぱえ、三国時代に形を整えたと考えられていますが、鐘繇は特に楷書が得意でこの宜示表はじめ数多くの楷書作が伝えられています。宣示表の書は素朴な親しみやすい感じで、形は扁平で横に張ったのが目につきます。明確な楷書としてはこれが最も古いものの一つです。
宜示表の真蹟は西晋の丞相王導が持っていたのを、王羲之・王脩と伝えられましたが、王脩が死んだとき、その母が棺に入れて葬ってしまったのでこの世にはなく、現在伝わるのは王羲之の臨本だろうとされています。
14、天発神讖碑(てんぱつしんしんのひ)
魏・呉・蜀の二国時代は長く続きませんでした。まず263年に蜀が魏に滅ぼされ、265年にはその魏が晋にとって代わられます。しばらくは晋と呉の対立時代がありましたが、280年に呉も晋に攻め滅ぼされてしまいました。この天発神讖碑は呉の滅亡する4年前に建てられたものです。
さて、天発神讖碑とはむずかしい呼称ですが、読み方も「てんのはっせし、しんしんのひ」と読んでもよろしいのです。また石が折れて三段に分かれているというので三段碑とも呼ばれていました。
この碑がつくられた頃は予言や迷信が信じられている時代でした。ある人が臨半湖周辺で呉真皇帝と刻した小石を手に入れて献上したところ、これは天から下されたおつげであるとして、その瑞祥に応ずるため、年号を天爾と改元し、呉の功徳をしるすためにこの碑が立てられました。天発神讖とは「天から下されたおつげ」という意味です。
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この碑の書体は奇妙な形をしています。これは篆書を隷書の筆法で書いてあるからです。つまり篆書は円筆(まるみのある書き方)ですが、隷書は方筆といって角ばった書き方をします。この碑はそれらを混ぜ合わせた書で、実にユニークな他に類を見ないものです。
古い株券や証券類にこれに似た書体が用いられているものがあったように記憶しますが、今の時代風にいうと「デザイン志向の美」というところでしょうか。
この碑は、はじめ今の南京の南にあたる巌山に建てられたということですが、その後諸所を転々として最後は江寧の府学に在ったところ、清の嘉慶10年(1805)に火災にあって焼失してしまったということです。従って今は拓本しか残っていません。
15、月儀章
古くから西晋の索靖(さくせい)の書として伝えられている月儀章というのが あります.
索靖(239~303)は敦煌の人で、若い時から秀才の名が高く、氾衷らとともに敦煌の五龍とよぱれていました。他の四人は早く亡くなりましたが、索靖は西晋の武帝に用いられて要職につき、次の恵帝が即位したとき関内侯に叙せられ、大将軍に任ぜられて武人としても活躍した人です。
月儀章は一般に書儀とよばれているものの一種です。書儀というのは、人生の諸事にわたる公私文書の規範のことですが、月儀は1年を12か月に分けて、それぞれの時候にふさわしい雅言を書いているので月儀とよばれています。今でいえば「12か月手紙文規範」とでもいうところでしょうか。
この月儀章は索靖が書いたと伝えられていますので、もしそうだとすると西晋時代のもので、今から1750年前の書ということになります。(原本ではありませんが)しかしこれにはいろいろ異説があります。
ところでこの書は草書体で書かれています。いつの頃草書が生まれたのかという疑問がありますが、篆隷書体からいきなり草書に移るわけはありません。おそらく実用上の必要性から工夫され、多くの人の手によって、また永い年数を経て出来上ったものでしょうが、その発生についてははっきりしていませんでした。
ところが。近年になって出土する木簡や残紙からいろいろなことがわかってきました。それによると草書は前漢時代に芽ばえ、後漢時代に整備され、晋代で盛んになった。というのがいまのところ定説のようです。
後漢の張伯英(張之)が草書を作ったというのが従来の一般的な説で、張芝は「草聖」と呼ばれていますが、張芝の時代にはすでに草書が盛んに書かれていますので、むしろ張芝は草書の名人ということで「草聖」の名がある、というのが本当でしょう。
また西晋時代には草書の名手がすくなくなかったようですが、次の人達は特に有名です。
衛瓘(えいかん) 頓州帖
陸機(りくき) ‐ 平復帖
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筆者 老本静香(おいもと・せいこう) 当会副理事長
※「書の歴史」は「小石の友」誌に昭和61年から連載されています。(この記事はWeb用に一部加筆しました)