楽毅論
楽毅論

書 の 歴 史(中国編)<6> 老本 静香

 

王羲之の書(1)  

 

16、楽毅論

 この書の歴史も、三国が滅んで晋の時代まできましたが、その晋王朝も50年ほどで北方民族に侵略され滅びます。

 ところが、晋王室の一族の司馬が王導の補佐によって江南地方をよく統冶し、やがて皇帝の位について晋帝国を再興しました。そして居城のあった建業(今の南京)を建康と名を改めて都とし、これから以後これを東晋といい、前に洛陽に都のあった晋王朝を西晋といって区別することにしました。

 東晋は揚子江(長江)より南の地方を領有しましだが、それは中国の半分にあたるものです。東晋としては、北方は異民族の争いにまかせ、領土は狭くなったけれども気候風土に恵まれ、産物も豊かでまた南方地帯が新たに開発されるなど、財政にも困らなかったので、貴族たちは豊かな生活を楽しみ、華麗な貴族文化を発展させました。

 一方揚子江より北の地方の中国の北半分は、異民族が争い合い、国を建てたり独立したりして、数多くの国が次々と興亡していました。それらは五種の異民族によって十六の国が興亡したので、歴史上この時代を「五胡十六国」とよんでいます。

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 王羲之はこの東晋時代の人です。右軍将軍という官にあったことがあるので、王右軍ともよばれています。

 これからしばらくはこの王羲之の書について書きますが、王羲之の書というのは、真蹟は一つも残っていません。

 ここにのせましたのは王羲之の楽毅論です。楽毅論というのは、魏の夏侯玄が著した戦国時代の将軍・楽毅の人物論を書いたものです。この書は拓本で伝えられていますが、楷書体の完成された用筆の妙味があるといわれているものです。

 奈良の正倉院に光明皇后が書かれた楽毅論が残されています。それはこの王羲之の書を臨書したものですが、中国から請来された唐代またはそれ以前の模本によったものであろうといわれています。

黄庭経
黄庭経

17、黄庭経

王羲之には昔から多くの伝説がありますので二、三紹介します。

 王羲之は小さい頃から字を書くことがたいへん好きでした。昼も夜も、道を歩いている時も、腰かけている時も手で字を書く練習をしました。いつも自分の衣服の上に手でなぞって字を練習していましたので、衣服はボロボロに破れてしまいました。寝る時にもふとんに字を書く練習をしていました。

    

 ある日、王羲之は友人の家に遊びに行きました。でも友人は出かけたところでいませんでした。そこで王羲之は友人の机の上に字を書いて帰りました。

王羲之が帰ったあと、友人の奥さんがその字を消そうとして、雑巾で力いっぱい拭いてみましたが、ぜんぜん消えませんでした。その後削ってみたところ、なんとこの字は木の中に深く墨が染み透っていたのです。これを見た人々はびっくりしました。王羲之の書いた字はそれほど力強かったのです。

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中国の古い書物に、「王羲之の書、木に入ること三分」と書かれていますが、それが日本に伝えられて、日本では「入木道」(じゅぼくどう)とよんで書道のことをさすようになりました。

  私の住んでいる町に、わりあい有名な古い筆屋さんがありますが、そこで出している筆に「入木筆」というのがあります。ところがこの筆を、地元の人でも大抵「いりき筆」と読んで「じゅぼく筆」と読むことを知りません。

  この際皆さんも覚えておいてください、「入木」とは(じゅぼく)と読み、王羲之の古い話から来ていること、そして「入木道」というと日本書道をさしていう別のよび方だということを。

                        

 ここに載せましたのは「黄庭経」です。王羲之が書いたと伝えられている有名なものの一つで、小楷で書かれています。内容は老子が書いた不老長寿の養生訓です。

蘭亭叙
蘭亭叙

 

18、蘭亭序

いまから1660年以上前の永和9年(35333日、王羲之は蘭亭で流觴曲水の宴を催しました。旧暦の33日は、新暦でいうと4月中頃になります。春もたけなわのもっともよい季節です。

当時右軍将軍・会稽内史(王国で内政を司る官職)という役にあった王羲之は、志を同じくする人々を蘭亭に招待しました。集まったのは著名な知識人や文化人など、当時の一流名士ばかりで主人役の王羲之も入れて42人でした。

 王羲之はこの人たちとともに、当時の年中行事である修禊の儀式(水浴びして身を清め、邪気をはらうまつり)を行ない、流觴曲水の宴を開きました。一同は曲水(庭に引いた曲りくねった小さい流れ)の傍らに列んで坐り、上流から流した酒盃が自分の前に来る間に詩を作るのです。もし詩が出来なかったら罰として酒を飲まされます。こうした風流な遊びで一日を楽しみましたが、詩が出来だのは26人で、残りの16人は詩が出来ず、罰に大きな盃で3杯ずつ酒を飲まされたということです。

 これらの詩、全部で37首を一巻にまとめて作品集とし、王羲之が筆を執って序文を書きました。これが書道史上有名な蘭亭序です。

 王羲之は蚕繭紙を使い、鼠髪筆で書いたと伝えられていますが、28行、324字を書き上げました。酒のほろ酔い加減も手伝って気分よく書けて、それはすばらしい出来栄えでした。この書はあたかも神助があったかのようで、あとで数百本書きましたが、この時に書いたものに及びませんでした。

 王羲之は「書聖」といわれ、書の神様ですから、その書は立派で貴重なものですが、そのたくさんの書跡の中でも蘭亭序は最高傑作といわれています。

 

目次

 

※「書の歴史」は「小石の友」誌に昭和61年から連載されています。(この記事はWeb用に一部加筆しました)

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