書 の 歴 史(中国編)<8> 老本 静香
王献之の書
22、中秋帖
王献之は王羲之の七番目の男子です。若い頃から才能をうたわれ、特に書は兄弟中でも最もすぐれていて、父の王羲之を大王とよぶのに対し、献之を小王とよんで、これを二王といいます。
王献之は役人としても地方庁の事務官をふり出しに、貴族の子弟のうち最も優秀な者が選ばれる宮廷図書館の職員に任ぜられ、また地方長官なども歴任し、中書令(内大臣)にまで出世しました。
献之は八人兄弟の末っ子で、一人の姉と六人の兄がいました。さすが王羲之の子供です、兄たちはみんな書にすぐれていましたが、末っ子の献之があまりにも上手で有名になったため、兄たちの名がかすんでしまったようです。
その中で第二子の王凝之と、第五子の王徽之の二人は特にすぐれていたといわれ、王徽之の書は今も新月帖などが伝えられています。
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王献之は男の子としては七番目でしたので子供の頃は「七郎」とよぱれて、家族にかわいがられながら、すくすくと育ちました。献之は口数の少ない、根気強い子供だったそうです。
ある日のこと、献之はむちゅうで習字のけいこをしていました。朝から昼のごはんも夜のごはんも食べずに、黙々と続けているものですから、その様子に父の王羲之は見かねて、献之の握っている筆をとりあげようとしました。
筆を取られては一大事、献之は、力の限り筆を握りしめました。その力は七歳や八歳の子供の力とはとても思えないほど強く、父をびっくりさせました。
このことがあってから、王羲之はことあるごとに「七郎は将来、必ず立派な書家になるよ」とうれしそうに云ったということです。
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中秋帖は王献之の書として伝えられているもので、真蹟ではありませんが、筆が続いて切れ目がなく、これを献之の一筆書といいますが、その特徴を伝えています。はじまりの中秋の二字からとって「中秋帖」とよんでいます。
23、王献之の書 ―鴨頭帖
王献之について有名な話をもう一つ書きます。
ある日、新しい壁に、大きな字で「大」と書かれていました。献之の父の王羲之が、その立派な書きぶりに感心して、「見事な字だ、誰が書いたの」
と尋ねました。
「七郎の献之が書きました」
その答に、王羲之はとびあがらんばかりに喜んで、友人や知り合いの人たちに壁の文字を見せました。見物人も百人、二百人と来て、献之の字を見てみんな感心し賞めたたえました。この時の献之はわずか十歳だったということです。
献之はそれからあと書の勉強に励みました。五年・十年と努力のかいがあって、献之の腕はメキメキと上がりました。同時に評判も高くなって、大いに自信をつけました。
自信満々の献之は、自分の力を誰よりも父に認めてもらいたかった。そこで認めてもらう何かよい方法はないものかと、毎日考えていました。
ある日のこと、父の王羲之は、家の壁にさらさらと文字を書き残して、
「では、るすをたのみます」
といって都へ旅立ちました。
見送った献之は、″これは絶好のチャンス到来″とばかり、王羲之の書いた壁の文字をきれいにぬぐいとりました。そして献之は壁に向うと、「父に負ける ものか」と、力をこめて壁に同じ字を書きました。書き上った字を眺めて、「我れながら見事に書けたぞ!」と思いました。
はたしてその献之の文字は、たいへんな評判になりました。鼻を高くした王献之は、一日も早く父にほめてもらいたく、今日か明日かと父の帰りを待ちわびました。
やがて都の用事を終えた王羲之が帰ってきました。王羲之は、自分が出かける時に書いた壁の文字を見て、おかしいなあ、とでもいうように首をひねりました。そして献之を呼ぶと、
「すまないが七郎、この文字を書いた時、父はずいぶん酒に酔っていたとみえる、まずい字だからすぐ消しておくれ」といって、大きなため息をつきました。そうした父の様子に、献之は、まだまだ自分の書は父に遠く及ばない、と思ってうぬぼれていたことを大いに恥じ、前にもまして書の勉強に励んだということです。
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